日本語で韻を踏むということ。あるいは日本語脚韻辞典で得られた知見

 私は必ずメロディを先に書いてその後歌詞をつける。その場合、メロディの都合に歌詞をあわせることになる。メロディの都合に歌詞をあわせようとすると、歌詞の文字数にかなりのしばりが出来る。メロディには切れ目というものが必ずあり、メロディの切れ目と歌詞の切れ目をあわせないと、メロディの魅力を殺してしまうからである。だから私の日本語脚韻辞典でも、単語をすべて二文字、三文字、四文字という風に文字数でわけている。それによって、日本語での音節の数の傾向も見て取れるようになった。それによって得られた知見は次のようなものである。日本語では、四音節の単語が一番多い。次に三音節、その次が二音節。五音節以上の単語となると急減する。

 五十音の「うくすつぬふむゆる」=「う列」で終わる日本語の名詞はほとんどない。日本語の動詞はすべて「う列」で終わるから、それとのキャラかぶりを避けてるのだろう。当然の帰結だが、語尾「る」で終わる日本語の名詞もほとんどない(ゼロかも)。日本語の会話、文章で現れる、語尾が「る」である言葉は(たぶん)すべて外来語である。だから、語尾が「る」の単語で韻を踏もうとしても、動詞は「る」で終わるものが圧倒的に多い中、韻を踏むペアとなるもう一方の単語(体言)はすべて外来語ということになり、「る」で終わる動詞で韻を踏もうとするとワンパターン化しやすい。

え列(エケセテネヘメエレエ)は命令形が多い。

形容詞と動詞と名詞の組み合わせで韻を踏もうとするとは「…く」で韻を踏むことが多くなる。

語尾が「らい」の形容詞はマイナスな意味しかない。

語尾が「かい」の形容詞にはあまり良い意味はない。

語尾が「なつ」で韻を踏むのは無理。

語尾が「だけ」で韻を踏む組み合わせは結構ある。

語尾が「…わ」では韻を踏めない(「(主語)は」を語尾に持ってくることぐらい)。

語尾が「お列(オコソトノホモヨロヲ)」の動詞で一番有望なのは「…こう・そう」あたり

語尾が「う」列(ウクスツヌフルユルウ)で終わる名詞が多い語尾のところには動詞がほぼない。たとえば「く」。

語尾が「…お」で終わる韻はそもそもない。

語尾を「めて」にするのは絶対にするのは避ける。「めて」で終わる日本語の名詞はない。曖昧韻を使えばないことはないが、ろくな意味がない(酩酊、免停、メーデイなどで韻を踏むことになる)。

語尾に「くて」「しい」「しみ」「きみ」が来るのは避けた方がいい。

語尾「ても」「でも」「なぜ」「こす」で韻を踏むのはほぼ不可能。

語尾「しみ」(悲しみ、親しみ)、で韻を踏むのはやりづらい。両方とも用言に見え、安直な押韻詩に見える。

きみで終わる動詞は詞として使えないし、体言には(「君(きみ)」以外ろくな単語がない

「ぞ」で終わる韻はほぼ不可能。「こそ」で韻を踏むぐらい。

「…そう(つきそうとか)」なら可能。

「…しようと」の韻はたくさんある。

「…すると」の韻はたくさんある。

「…し」での韻はたくさんある。

 日本語では、用言(動詞/形容詞/形容動詞)と体言が同じ語尾を持つことが明らかに避けられている。私の日本語脚韻辞典では、韻を探しやすいように、同じ語尾における用言と体言とを色別にわけている。それらをざっとみて分かることだが、ほとんどの場合、同じ語尾における用言と体言の割合は、9:1、8:2、7:3のように、用言と体言のうちどちらかが圧倒的に多く、どちらかが圧倒的にすくない。体言と用言の割合が、5:5ぐらいなら、豊富な選択肢の中から単語を選ぶことが出来るだろうが、たいてい数少ない選択肢の中から韻のペアの一方を選ぶことになり、かなり苦しい選択を強いられる。日本語は語尾が動詞で終わるということから文末の単語の語尾がワンパターンになりがちであるから、韻を踏みづらいというのもあるが、上記のような、体言と用言の比率の意味でも、日本語は韻を踏むための言葉としてはあまり適してはいないということは言える。

それ故1300年もの間、日本語で本格的な韻を踏むことが出来なかったのだ。

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